Microsoft Word - 05_JP_Nalti_setting 60 Jurnal LINGUA CULTURA Vol.6 No.1 Mei 2012: 60-66 桂米朝の上方落語の中の婉曲法  MAJAS EUFIMISME DALAM KAMIGATA RAKUGO KARYA KATSURA BEICHO            ナルティ.ノヴィアンティ Nalti Novianti Japanese Department, Faculty of Humanities, Bina Nusantara University Jln. Kemanggisan Ilir III No. 45, Kemanggisan, Jakarta Barat 11480 naltin@binus.edu   概要    婉曲法は具体的に聞き手が感じる不快感や困惑を少なくする目的で、あるいは話し手 がそのような不都合やタブーへの抵触を避ける目的で用いられる。当研究はユーモアを通じ て、桂米朝が書いた上方落語の本「愛憎模様」における婉曲法を分析するものである。話の 中で、その婉曲法をどのように用いられるか、どのようにユーモアに結び付けられるかを知 ることが目標である。関西落語におけるユーモアは、関西人の社会や文化を背景とし、それ らから多大な影響を受けている。関西、中でも大阪は昔から商人の町として知られ、商人の 文化が盛んであった。そしてその商人の文化から、人との関係をよりよく、大切にするため に、横社会制度を保って、ワッハ文化が生まれた。この商人文化とワッハ文化こそが関西落 語の背景となったわけである。桂米朝が書いた上方落語の本『愛憎模様』における婉曲法は、 関西らしいユーモアを通じて、話を面白く表現するためである。データを分析するために、 Sperber and Wilson ( 1991 )の The Theory of Relevancy を使用し、データと背景の関西社会や文 化と結びつけた。Raskin ( 1996 )によると、話の中でフレームの対立があるからこそ、サプラ イズが起こり、最高に面白いユーモアが出てくるということである。この理論は Ross(19 98)の理論にも支持されてある。    ABSTRAK Euphimisme merupakan sebuah majas yang bertujuan untuk menghaluskan satu ucapan agar petutur tidak perlu mendengarkan kata-kata tabu atau kasar. Selain itu majas inipun bertujuan untuk memperkecil perasaan tidak nyaman petutur saat sedang melakukan tindak komunikasi. Artikel menjelaskan penelitian yang membahas masalah eufimisme melalui sebuah cerita humor Jepang, yaitu Rakugo karya Katsura Beichoo yang berjudul Aizo moyo. Tujuan penelitian untuk mengetahui sejauh mana eufimisme dapat digunakan untuk menarik unsur humor dari cerita yang disajikan. Rakugo daerah Kansai atau sering disebut dengan Kamigata rakugo, ceritanya banyak dilatarbelakangi oleh budaya Kansai yang kental dengan budaya perdagangan. Osaka sejak dulu terkenal sebagai kota perdagangan yang diwarnai hubungan sosial yang vertikal, dengan tipisnya hubungan hierarki antara atasan dan bawahan. Sementara di daerah Tokyo hubungan sosial antar manusianya lebih ke arah hierarki tinggi yang mengusung ketat hubungan atasan dan bawahan. Karena itulah budaya Osaka lebih kental dengan berbagai problem manusia yang tidak mementingkan hierarki, dan justru itulah yang membuat budaya Osaka kaya akan warna, dan disebut dengan “ Wahha Bunka“ atau budaya ketawa ala Osaka. Untuk meneliti eufimisme dalam unsur humor ini, penulis menggunakan teori relevansi dari Sperber dan Wilson (1991). Kemudian untuk menemukan unsur humornya digunakan teori Raskin ( 1996 ) , yang didukung oleh Ross ( 1998 ). Keywords: Eufimisme, Humor , Kamigata Rakugo Majas Eufimisme ….. (Nalti Novianti) 61 はじめに     落語は二つの漢字で成り立ち、落は「落ちる」という意味で、語は「言葉遣い」あるい は狭い意味では「単語」を示す言葉である。相場(1992:7)によると、落語は「軽口 話で、言葉の最後に「落ち」がある」と説明した。簡単に言えば、落語は話し手が客の前で、 ユーモア要素のある話のパフォーマンスをする。いつ「落ち」が来るがわからないのは落語 の一つの面白さである。    上方落語は関西の方に広く盛んで、さかのぼると江戸時代の1615年に始めて書物に なり、1623年、徳川家光の治世下で完全に近づき、1628年に完全版の古典落語の書 物ができあがった。これは文学分作品としても認められている(相場:1992:16)。  当研究に使用している理論、仁田の婉曲法の理論(1992)、 野村が解釈した Raskin  の Theory of frame (1996) ,  Ross ( 1998 )の Theory of Incongruity の三つである。     まず、データの中にユーモアの要素があるかどうか、Ross  (  1998  ),  Theory  of  Incongruity で分析し判断する。そして Raskin  (  1996  )  のフレーム理論でどのようなユーモアが働い ているのか、どのような文化が背景としてそのユーモアを生かすのか、Sperber  and  Wilson  ( 1986 ) の Theory of Relevancy を使用して、分析する。結論には、婉曲法はどのように言葉を 言い換えて、ユーモアの要素を生かすのかを述べる。    仁田(1992)は、婉曲表現の特徴を丁寧の観点から次のように説明している。婉曲表現 とは、①話し手は言表事態の成立が真であると認識している。②言表事態の成立が未だ認識 されていないところを有するものとして表現されている。婉曲表現は、基本的に丁寧さとい った伝え方に関わる現象であると述べている。     「婉曲表現とは、他人との無益な衝突を避けるため、角が立つような言い回しから角が 立たないような言い回しへの言い換えと、確実である事柄を確実でないように表現する表現 のしかたである。」  Ross(1998)の Incongruity Theory 下記の通りである。         “The incongruity theory focuses on the element of surprise. It states that humor is created out of a  conflict between what  is expected and what actually occurs  in the  joke. This occurs for the most  obvious feature of much humor: an ambiguity, or double meaning. Which deliberately mislead the  audience, followed by puncline ( Ross,1998:7 ).     そして、Raskin フレーム理論は Nomura ( 1995 )が下記のように解釈をされている。  1. 冗談で実際に起こる状態と冗談で呼び起こされた状態のフレームの対立。  2. 違うフレームで話を立ち上げる。    フレームの話がずれるからこそが Ross の述べた Punc  line/刺激が起こりうる。つまり読 者や聞き手が期待していることが逆方向に行ってしまうということで、ユーモア要素がある と確実に理解することができる。    当研究では本の中におけるユーモア要素があると思われる会話文だけ取り上げ、上記に 述べた理論を通し、分析をする。今回は三つの話、「すとくいん」,「たち切れ線香」、 「持参金」から、データを収集した。  62 Jurnal LINGUA CULTURA Vol.6 No.1 Mei 2012: 60-66 仁田(1992)が言ったように、婉曲法は丁寧さを求めている。実際の上方落語の世 界で、この婉曲法が通用する話術であることを証明する。      研究の分析      桂米朝が書いた上方落語の話「愛憎模様」の中には五つの話がある。今回はその五つの 話の中にある三つのフレースのみ取り上げ、分析する。    データ1    「すとくいん」と言う話の中で、登場する人の旦那と熊五郎という手伝いの会話文。    旦那  :こらちょっと待ちなはれ。倅はまだ死んでやせん  熊  :あ、さよか。そら埒があかんこった。  旦那  :そらなにを言うのやいな、埒があいてたまるかかいな  (ページ48)      旦那の息子が、好きな女性に会いたがっているが、一回会っただけで、どこの誰かがわ からない。その恋の悩みで、何週間も部屋にこもって、誰にも会いがらない、食事もとらな い、当然病気の有様になってしまった。そこで、旦那は熊五郎に頼み、その女性を探すよう に、呼び出した。その前に息子のもやもやの気持ちを晴らすために、お寺に熊五郎と一緒に 言ってほしいといった。熊五郎は「お寺」と言われると、「死ぬ」という関連を認知してい る。それで、熊五郎は旦那に葬儀屋さんに連絡しなければならないといった。そのとき旦那 は「こらちょっと待ちなはれ。倅はまだ死んでやせん」という。これは「旦那の息子が死ん だら問題が解決する」、「旦那の息子が死んだら、旦那の悩みも一段楽する」、「旦那の息 子が死んだら、わけ分からないどこかのの娘を探さなくても済む」、など、いろいろ考えら れる説明はあるが、とにかく「旦那の息子が死んだら、物事が簡単に片付けられる」という 熊五郎の残酷な考え方が裏付けられている。    Ross が言っている Puncline いわゆる「落ち」は熊五郎が言っている「あ、さよか。埒が あかんこった」の会話文に示されている。熊五郎は「何だ、まだ死んでいないのか、片付け られないな」と言いたかったのだが、話し相手が自分より身分がたかいし、いつもお世話人 なっている人だから言えない。しかもこれを言ったら、旦那に失礼、怒りを呼び起こすかも しれないという様子を予想している熊五郎は言葉を言い換えてみる。もちろん現実だったら、 旦那にも、病気の息子に対しても十分無礼な言葉だが、だからこそ落語の世界では笑いを呼 ぶ力になると思われる。新明国語辞典によると、「埒があかない」のもとの意味は、「物事 がはかどらない.物事に決まりがつかない」という説明がなされている。言語由来辞典によ ると、「埒」というのは「囲いや仕切りのことで、主に馬場の周囲に設けた柵のことを指す。 埒が「進展」という意味で使われるようになった由来は諸説あり加茂競べ馬「比べ馬」柵が 外されるのを待ちわびた一般客が言った言葉から始まる」と書かれてある。 熊五郎は無理な依頼を出した旦那に「攻撃」をかけようと思ったが、どうしても世話に なっている人だから、「まだ死んでいないのか」という「残酷」なフレーズを「埒が明かな い」という一段丁寧さを表すフレーズで自分の不満を旦那に伝えた。どうしてここが面白い Majas Eufimisme ….. (Nalti Novianti) 63 かというと Raskin (1995)が言った冗談で実際に起こる状態と冗談で呼び起こされ た状態のフレームの対立があるから、「酷い」と思われてもこのフレーズは笑いを呼び起こ せる。  上記にふれたように、上方落語はワッハ文化という商人の文化から生まれた横社会の関 係をよりよく保つためにできた文化なのである。関東の縦社会と違い、旦那と手伝いの会話 文にも、上のように横社会の様子を見ることができる。 データ2    「たち切れ線香」と言う話の中で、登場する人の御茶屋の奥さんと金持ちの息子「若旦 那」の会話文。    甲  :「...お越しやす...若旦那」  乙  :「...ご機嫌さんで...」  若  :「...ご機嫌さん...ああ...よう来たげとおくなはった、そうか... 久し   ぶりにお酌してもらいまひょうかな。お母はん。いただきます。...小糸呼ば れ  るわ。(一口飲んで咳き込む)ゴホン、ゴホン  (上座、調子を合わせる音)。 芸 :「キャーお母ちゃん、お仏壇の三味線が鳴ってる」 内 :「へえ、お仏壇の三味線が...」 若 :「シーッ」 (上座で、他唄の雪、♪ほんに昔の昔のことよ...) 若 :「小糸よ、堪忍してくれ。何も知らなんだんや。恨んだやろうなァ。わしゃもう 生涯 女房と名のつくものは持たんで」 内 :「若旦那、よう言う手やってくれ張りました。千部万部のお経より、どれぐらい うれ しかったやろうと思います。小糸、今日の若旦那のお言葉を聞いて、どうぞ迷わ ず 成仏しとや」 (上座、♪おしのおとりの...途中でプツッと音やむ) 若 :「...な...なんで途中で止まったや。これ、私の好きな他唄の雪やが な..。 何でしまいまで弾いてくれへんのや」 内 :「ほんまになんで、小糸、もっと弾かへんねん......、若旦那何ぼ言うて も、 もう小糸、三味線弾けしまへんわ」 若 :「なんでやねん...」 内 :「お仏壇の線香が、ちょうど立ちきれました」 大阪の金持ちの息子が芸者に恋に落ちて、毎晩ほど花街へ行き、お金の無駄使いをして いる。心配になった旦那は番頭さんに、100日間、若旦那を倉庫にとじこめるように頼ん だ。そこから出られる条件はただ一つ、その芸者との関係を絶つことである。その間に、小 64 Jurnal LINGUA CULTURA Vol.6 No.1 Mei 2012: 60-66 糸という若旦那が愛している芸者は若旦那に会いたくて、その金持ちのうちへ行き、会わせ てほしいといっても、会わせてくれなかったので、番頭さんに手紙を渡すように、頼んだ。 が、その手紙を読むと、若旦那の気持ちがまた歪むからと判断した番頭は手紙を渡さなかっ た。そして、100日が経ち、若旦那は番頭さんに花町にはぜったい行かないと強く約束し て、倉庫から出してもらって、ようやく自由がもどった。神社へお祈りをと言っておいて、 一目瞭然小糸にいる花街へと急いで行った。が、その何週間も会っていない間に小糸は若旦 那に捨てられたと思い、体が弱くなり、死んでしまった。そのことがわからない旦那が小糸 うちに来た時、その女性はもう灰になっていて、仏壇には小糸がいつも弾いてくれていた三 味線だけが残っている。あまりにも悔しくて、悲しい若旦那は小糸の灰の前に一生結婚はし ないと約束した。その時、仏壇の上に飾ってある小糸の三味線がなった。聞こえてくる唄は 若旦那が好きなものだったが、最後までは至らなかった。そのうちのお母さんが仏壇の方へ 近づき、そこにおいてある線香が切れたのが、わかった。 昔の花町では、芸者や麻衣子のサービス料金というのは、線香何本で決めた。来客が来 た時に線香に火をつけて、線香が立ち切れたら、時間が来たということだった。延長時間ほ しいと言われたら、また線香に火をつける(桂、2005:20)。そこで、ここでは小糸 は死んでも芸者ゆえ、線香が切れたら、サービスは終わりということを「落ち」として、表 現しており、「延長料金払っていただければ、最後までうたいますよ」、「サービス時間が 終わりましたよ」、というような意味を示している。 Ross によると、ユーモア要素がある話における Punc line あるいは「落ち」というのは 聞き手や読み手の期待を裏切ることによって、出てくるサプライズのようなものである。死 んだ小糸がまさかまだサービス料金のことを考えるとは思わなかった、というのが話ではサ プライズになっている。 小糸に捧げる線香が断ち切れたとき、そのうちのお母さんは「もっと線香を立てて」、 「お会計の時間ですが、延長料金にいたしましょうか」とは言わないで、若旦那に「線香が 立ちけれた」というだけで、若旦那がサービス時間がもう終わりだということがわかった。 仁田(1992)が言ったように婉曲表現は、基本的に丁寧さといった伝え方に関わる現象 である。    「線香が断ち切れた」というフレーズは「サービス終了で、延長したければ、追加料金 を払って」という意味の言い換えの丁寧さを表しているフレーズであるわけだ。 Ruskin(1996)のフレームの理論から見ると、分析している上のフレーズの中には「現 実フレームと非現実フレーム」が働き、読者や、聞き手の興味をわかせるような部分がある からこそ、「落ち」はここだと判断することができる。 また、ここも、「商人の文化」という影響がみられる。死んでも、商売のことだけは頭 から離れないという皮肉を表現している。 データ3 「持参金」と言う話の中で、登場する人の甲と乙の会話文。  甲  :「な、嫁はん貰い」  乙  :「どこぞに、良え出物でおますか」  Majas Eufimisme ….. (Nalti Novianti) 65 甲  :「出物というやつがあるかいな。いやわしも、あてもなしにこんな話はせえへん。 実  はわしがどうやろうなと思てる相手はな、歳は二十二や」  乙  :「はあ、ちょうどよろしいな」  甲  :「そうやろう。この女はえろう別嬪ということはないが、ま、色はくっき り...」  乙  :「白いで」  甲  :「黒いねん」  乙  :「...さようか」  甲  :「その代わり、背がスラット、低いやん」  乙  :「へーン、黒うて、スラット低いで」  甲  :「顔はこの...でぼちんがぐっと出る割に鼻がうちらへ遠慮している、両側の ほっ  ぺたが盛り上がって、あごが前へ、こう、せり出しているさかい、こけても鼻は 打  んわな、...。」    甲は貧乏で、なかなか結婚ができないという男で、乙は金持ちの番頭として働いている、 という話の設定である。甲はあやまって、自分が仕事している家の女中を妊娠させてしまっ た。女中と結婚はしたくないが、責任は取るという考え方で、無職で貧乏な友達とその女性 を結婚させようと計画を立てた。その女中はけっして綺麗な人ではないが、直接言うと、断 られるかもしれないので、婉曲法を使って、言葉を言い換えるという方法で、貧乏な友達を 近づいていた。次の文章をみてみよう。「...でぽちんがぐっと出る割には、鼻がうちら へ遠慮している」というのは「額が広い、さらに外側の方へ出ている。そして鼻は低い、」 ということを表せている。そして「両側のほっぺたが盛り上がって、あごが前へ、こう、せ り出しているさかい、こけても鼻は打んわな、...。」という文章は「ほっぺが膨らんで、 あごはあまりにも前の方に出すぎているので、転ぶ時にはあごが鼻をかばって、鼻が折るこ とはないだろう」ということを表している。そこが、Ross が言っていた Punc  line が働いて、 笑いを呼び寄せる。    「鼻が遠慮して」というフレーズの中に「遠慮」という言葉は語源由来辞典(201 1)によると、人に対して、言葉や行動を控えめにすることである。鼻の形には関係ないよ うな気がしているが、この話にはうまく利用できる。また「ほっぺが盛り上がる」というフ レーズ中の「盛り上がり」という言葉は「盛ったように高くなる」という国語辞典には書い てある。そこで「膨らんだほっぺた」というフレーズを「ほっぺたが盛り上がる」に言い換 えることで、よりよく丁寧な言い方に言い換えており、大阪の商人文化が確実に見ることが できる。商人というのは、自分が売りたいものには、いくら悪くても「悪い」とは言わない。 ほめてはいないかもしれないが、違う言い方で、来客を品物に仕向けるような話の技術が確 かに存在する(井上、2003:201)。また、Raskin のフレーム理論から見ると、確実 に「綺麗な女」と「綺麗じゃない女」というフレームの中で、話をねじ合わせて、聞き手が あまりネガティブな方向へ向かせないように、婉曲法で言い方を変えて、もって丁寧に聞こ えるように工夫している。「その顔だからこそ、転ぶとしても、鼻だけは折れない」という さらにプラスのこと表現し、相手の興味を深く引く話の技術にそれが見られる。  また Ross(1998)の Incongruity 理論から見ると、サブライズが何度も登場する「顔は この...でぼちんがぐっと出る割に鼻がうちらへ遠慮している、両側のほっぺたが盛り上 がって、あごが前へ、こう、せり出しているさかい、こけても鼻は打んわな、...。」の 文におけるユーモア要素が確実に証明することができる。  66 Jurnal LINGUA CULTURA Vol.6 No.1 Mei 2012: 60-66 結論      分析したデータを見ると、婉曲法は落語の世界では、笑いを呼び寄せる道具として使わ れている。より丁寧に言葉を使うと、より面白さが出てくる。ユーモアというのは、時々話 し手が聞き手に「攻撃」したり「遠慮」したり「ポジティブな方向へ」さそったりしながら 笑いを呼び寄せる技術である。また、上方落語には、大阪の商人文化いわゆるワッハ文化が 話の中にとりいれ、よりよくその文化の中に生きている人たちの考え方や、理想が把握でき る。また Raskin のフレーム理論でわかったのは、話のフレームがはずれる、または話し手の 考え方のフレームは聞き手の考え方のフレームが対立することによって、笑いをもっと呼び 寄せる力になっているということであった。      参考文献      相場昭雄.1991.落語入門.東京:博文出版社    浅井健二.2001.関東人の思い込み、関西人の言い訳.東京:鳴海道出版    井上博  .2003、大阪の文化と笑い.大阪:関西大学出版部    野村正明、1996、落語のレトリック.東京:平凡社    Spelber,D., &Wilson Daidre. (1991) Relevance, Communication and Cognition.USA:Harvard Univ Press Ross, A. (1998). The language of Humor.London: Routladge